5-4和風照明 【中世のあかり】

和風照明

5-4 和風照明

【中世のあかり】

  中世の前の平安時代は藤原氏の全盛期で、貴族階級を中心に華麗な文化が花開いた時代でありました。しかし藤原時代は政争の上に築かれた繫栄であったため、貴族は主人の側に着く従者を雇ったのです。これが従者を意味する「さぶらう」という語源の「さむらい」であり、武芸に秀でたものの代名詞になりました。その武士の力が貴族のそれを凌駕する時代が中世であります。貴族と武家は考え方が大きく異なり、武士は簡素節約を旨とし、平安時代に栄えた灯りの文化である寝殿造りの几帳や御簾による淡い光や庭の篝火などは大きく変化していきました。武家社会のあかり文化は室内等の発展には見るべきものが少なく、屋外のあかりの展開に注目すべきものが多いと言えます。屋外のあかりは戦いや治安維持のために多用され、そこに様々な工夫が生み出されたからです。

油を注いで強い明りにした車松明

 

武家社会は夜にも人が動き回るようになり、松明が用途に合わせて多様な形に生み出されるようになりました。例えば松明に油を注いで強い明りとした車松明や投松明という敵陣に投げ込んで武器として用いた例が記録されています。

このような屋外での松明が5-2で語った「薪能」に影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。室町時代を代表する文化としてよく知られる北山文化と東山文化(わび・さびの文化)がありますが、北山文化は足利義満を中心とした絢爛華麗なもので、金閣寺がそれに当たりますが、観阿弥、世阿弥が義満の援護のもと派手好きの芸風として白州で囲まれた能舞台でダイナミックな薪能として発展しました。能面の表情が灯りの微妙な角度の違いで変化するという他に類を見ない芸術と評価されています。

薪能の舞台

 

一方室町時代は平安時代の寝殿造りに対して書院造が台頭した時代で、特色として会所と呼ばれる接客用の部屋や間仕切りにより小部屋が誕生することにより、外光が障子を通して部屋に取り込まれるシステムが定着しました。しかも畳によって反射されて部屋全体を柔らかな灯りの空間として演出するようになったのです。このことが透過光の明るさが認識された最初の出来事なのではないかと思われます。

 

これらが行灯の出現に大きな役割を果たしました。行灯は「行く灯」と字が示す如く携帯用の移動灯火器であった訳です。初期の行灯は四角い箱型の物に紙を貼り、真ん中に油皿を置いて火を灯したもので上部に持ち下げて歩くための取っ手があって、もっぱら屋外を下げて歩くために使用されました。

初期の行灯

 

屋外から家に入る時この行灯に火をつけたまま入り口において中に入っても、部屋の中で明るさが得られる書院造は、行灯の室内灯としても役立ったことだろうと思います。この入り口に置いた行灯はその後、露地行灯として重要な役割を持つことになるのです。

(次回もお楽しみに)

(文/河原武儀氏)



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